「エゴとイドと私」・・・・・不二稿京(監督)
イド構築され制御された“私”という個の意識(エゴ)の底に眠る無意識の欲望(イド)。

誕生し、殺戮し、滅するもの。生命について私はそう思う。イドは、生命欲という貪りそのもの。ならば“私”の本質は宇宙が拡張し続けるのに似て、無明の闇の果てを目指しDNAのレールを繋ぎ続ける貪りだろうか。

「阿弥陀仏の本願は老少善悪のわけへだてなく、すべての者を救うてくださること。ただ、念仏ひとつで阿弥陀仏に救うていただけよ。」という親鸞の言葉を知ったとき、私は一瞬、生命として存在することの謎を解く宇宙の構造が透けて見えた気がした。エゴから解放されることも出来ず、イドすなわち貪りのままに生命に固執する愚かな存在、決して悟ることなど出来ないそんな“私”をそのまま赦そうというのである。ただ在ればいいというのである。宇宙の意味や人生の意義の中に存在の拠りどころを探さずとも、ただ、今ここに在るという宇宙の奇跡に身を委ねればよいのだというのである。そして、「ただ、念仏ひとつで阿弥陀仏に救うていただけよ。」というそれは宇宙の循環するエナジーの一部としてただ、“私”がそこに在るということを受け入れる唯一の方法を教えているのである。
怪物
けれども私のような愚か者はその唯一の方法にさえ委ねることが出来ず、生き惑っている。

“私”は宇宙という生命の細胞の一つとしてただ在るだけである、と、そう認識したからといって、死という“私”の結末に向かって生きているという事実から解放されるものではないのだ。エゴから解放されることがない限りは。それゆえに、“私”たちは生命の虚しさにおののき、嘆き、美化し、時に生きる力を見失う。だからこそ「ただ、念仏ひとつで阿弥陀仏に救うていただけよ。」ということなのだろうが。

ところで、かつて親鸞の言葉とも出会う以前、誰が見てもエゴイストである若く愚かな私が、生きる力を見失い、絶望という感覚を知ったそのころ、無明の闇の中から「どんな生命でも生命は光に向かって還る」という誰かの声が私の中に聞こえてきたのだ。まるで甦るように。私は私のような愚かなエゴイストでも生きていて良いのだよと赦された気がした。以来、悪人面を引っさげながらも私は生き延びてきたのである。あれは生き延びようとする私のイドの声だった気がする。

阿弥陀仏が「帰命無量寿如来 南無不可思議光」であることを知ったのはごく最近のことである。


「実に不可解なヤツ」・・・・峯田康之(プロデューサー)
分からない。う〜ん、難しい作品ですよねえ。何て言ったらいいんだろう。恐いですよね。パワーありますよね。不二稿京が作り上げた映画「イド」を見た人達の感想である。そのとおりである。実にまさしくそう思うのである。しかし、私にとって何度みても、いや見る度ごとに面白さを増す、実に不可解なヤツなのである。それはまさに不二稿京に対しての印象そのものと同じなのだ。
ニセブタ
なんといっても、この作品を際立たせているのは、その稚拙さである。映画の文法から微妙にずれた、なんとも居心地の悪い感じ。ヘタウマならぬヘタヘタを目指す職人技というべきか。まとまることを本能的に拒絶しているとしか思えない破天荒さである。はっきり言えば生き恥さらす己の醜悪さを露悪趣味押し付けオンパレードで見知らぬ他者にたたきつけている。その時その瞬間に埋没する稚拙さ丸出しの不二稿京そのものがこの作品である。しかし、それこそが私の最も愛する不二稿京であり、皆に見て貰いたい自慢の不二稿京なのだ。その独自の世界には、寄せ集めのガラクタから立ち上がる、それでも生きんとする心に、手作りの温かみを加えた独創があるのだ。

今、不二稿京は青の奇蹟という自ら手作りで作り上げたアートスペースで、その演劇の上演や、映像の上映を行っている。その濃紺の壁面と青い丸太に囲まれた独自の空間の中で、不思議な妄想から、数々の怪しき幻想が不二稿京のパッションによって紬ぎ出されているのである。





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