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「その瞬間まで」 ロキ不二稿(ろき ふじわら)
とりあえず、解かっているだけの宇宙には、
こんな地球のような猥雑に栄える星は見当たらない。
はるかの彼方の果てまで暗い沈黙の世界であろう宇宙に、
我らの俗世が赤ちょうちんを灯している。
私は、宇宙の奇跡のその瞬間に存在している果報者だ。
在るということは無くなるということ、失うということ、分かり切っているのに
わたしと一緒に居てくれた猫たち犬たち鳥たち、百匹ははるかに超えて
けれど、居なくなって、さみしいよ
思い出すたび、切ないよ
許してね
もっと可愛がれば良かった
痛かった 苦しかった
死ぬ時は みな 喘ぎ苦しんで死んでゆく
奇跡の瞬間に存在したという果報の引き換えに
失われてゆく時、むごくその痛みは凄まじい
私にもその最期が待っているのだ
その瞬間まで
「茶太郎と茶太朗」 高橋 茶太朗(たかはし ちゃたろう)

↑にゃんこ茶太郎(高橋茶太郎)です。この猫から名前をもらいました。 全く同姓同名でもよかったのですが、君とは一寸違うぞ、という思いから「郎」を「朗」にしました。 写真は何故かカメラ目線のにゃんこ茶太郎くんです。
仔猫の時、風邪で両目がふさがって、ヨタヨタ道路を歩いているところを発見、その足で動物病院に連れて行きました。両目がふさがっていたにも関わらず、たまたま持っていた巾着袋の中で元気そうに、もそもそ蠢いておりました。
連れて帰ると、まだ仔猫だというのに、古参猫たちが、随分怖がっておりました。 怖がっていたことだけあって、巨大猫に成長しました。 当時、劇団に住んでいたMぐっつぁんも、何故か、にゃんこ茶太郎には一目置いていたのを私は知っております。
懐中電灯の灯りを追いかけるのが大好きな猫でした。10キロもの巨体で灯りを追いかけるので、大迫力でした。
卓球台の上で、ピンポン球を右に左に追いかけて遊ぶのも大好きでした。
卓球台の上に、肉球の足跡がたくさんつきました。その時、猫は足の裏から汗をかくのだと、知識では知っていましたが、よく分かりました。
人間の食べるものを欲しがる猫がたくさんいる中、頑なに食べなれた猫のごはんしか食べません。
トイレも決まって同じ場所(新聞を細くちぎったトイレ)でしかしません。他のオス猫がかけしょん(マーキング)をするのを見かけると、プリプリ怒っておりました。
2,3日、家を空けたことがあって、新聞のトイレじゃ随分汚れるだろうと思い、猫砂をたっぷり入れてやっていたのに、帰ってきたら、その猫砂の横に積み上げていた新聞の上で、ちょうどトイレをしていました。その姿は健気ですらあり、なんと頑なな・・・と思いました。
そのにゃんこ茶太郎も去年白血病で急逝しました。 回虫を吐いたので、病院に連れて行って、お薬をもらったのですが、次の日、あまりに調子が悪そうだったので病院に連れて行くと緊急入院。その日の夜、電話があり、訃報を受けました。齢7歳半といったところでしょうか。あっけない最期でした。 もう弱りきっていたので、回虫が宿主を見捨てて出て来ていたのかも知れません。薬を飲ませて早めてしまったのかもしれません。看取ってやれなかったのが残念です。
私の父も、今は回復していますが、白血病で入院しました。なので、いつか私も白血病になるのだろうと思っています。
話は全然変わりますが、オルガンヴィトーの舞台写真もよく撮っていただく、写真家の横田敦史さんに、去年、情宣用の写真を撮って頂きました。しかしながら、悲しいかな、全く情宣するようなことがなく、た~だ撮ってもらっただけになってしまっているので、誠に勝手ではございますが、この場をおかりして載せちゃいます。
↓高橋茶太朗です。

アングラ劇団員に似つかわしくなく、さわやかさんに撮っていただきました。
※しかし、髪くらいといとけば良かった・・・。
「運動会」 塔嶌 昭三(とうじま しょうぞう) 先日、息子の運動会だったのですが、土曜が雨で日曜に延期。そして日曜も雨でした。
幹生の小学校は現在 建て替え中のため、隣町の小学校を借りての運動会なので、これ以上の延期は出来ない状況でした。
よって、その小学校の体育館でカケッコなどの個人技抜きで行われることになりました。
そもそも毎年この梅雨の時期なので、延期ばかりなのですが 、今年は盛り上がらないのでは!?
と思いましたが案外、ギュッと凝縮されていて見応えがありました。
体育館だと応援合戦や騎馬戦はまるで昔のTV「オールスター運動会」のようで懐かしかったです。
「旅人と迷子」 水口 真光(みずぐち まさみつ) 十代の頃、旅に憧れていた。
今は失ってしまった子供の単純さで、無邪気に、素朴に憧れていた。
そういえば「旅人」と「迷子」はどこか似ているような気がする。
しかし「旅行者」と「迷子」は全然似ていない。
旅人や迷子という言葉には詩的な響きがあり、なにか後ろめたいような恥ずかしさと共に詩情を感じてしまう。
あれはどこへ向かう途中だったのか。記憶が定かでなく、もうはっきりとは思い出せないが、子供の頃母親や他の兄妹達とはぐれてしまい、バスに一人取り残され誰にも気付かれないまま終点を過ぎ、車庫まで行ってしまったことがあった。
はじめのうち、僕は心細くて仕方がなく周囲の大人は残酷な巨人のようにも見え、声を出せないくらい不安で怖くて堪らなかった。
しかし何故か、次第によそよそしいだけだった外の景色が夕闇に包まれていくにつれ、窓の外を走り抜けていく街は怪しい輝きを帯びてゆき、不思議な期待感のようなものが沸き上がってきたのをよく覚えている。
やがてバスは薄暗い、まるで鯨の腹の中のような車庫に入っていった。いよいよ何かが始まるのだと僕は思った。
後ろの座席に子供が一人残されていることに気がついた運転手が、いっときして母親や兄妹達と一緒にまた戻って来た時は、安心もしたが同時にどこか興がさめてしまったような残念な気さえしていた。
それは勿論、両親がちゃんといて何不自由なく育てられたからこその感情で、今こうして想うのも子供時代の甘い感傷に過ぎないのはよく分かっているのだが、しかし記憶を振り返る度、あの怪しく輝いていた街を実際に歩いてみたかったとも思う。
旅への憧れ。それはロード・ムービー、アメリカン・ニューシネマと呼ばれた一連の作品群、古本屋で買ったものの殆ど読まずに棚に置かれたままだったジャック・ケルアックの『路上』、そんなものなどによってもまた育まれていたのかもしれない。
観念化した旅への憧れは一応現実の行動にも結びつき、16歳の夏、高校を中退していた僕はろくに働きもせず親の仕送りで一人暮らしをしていたのだが、隣の部屋に住んでいた三つ程年上のカメラマン志望の男と二人、ヒッチハイクで九州まで行ったのだった。
九州までの道中、沢山の車に乗せて貰った。乗せて貰うだけでなく、飯を奢って貰ったり「頑張れよ」と励まされたり、また逆に乗せてはくれたものの移動中「お前等みたいなガキは本当は嫌いなんだ」と、ずっと怒られっぱなしだったりしたこともあった。
夜は、駐車場で寝ることが多かった。歩き疲れ、車がすぐ横を猛スピードで走り抜ける路肩で二人して気絶したように寝たりもした。そしてまた次の車が止まってくれるまで親指を突き上げながらひたすら歩き、互いの金の使い方のことで喧嘩をして、揚げ句の果てには酷い風邪をひき、最後はボロボロだったがなんとかようやく九州まで辿り着いて、「旅」の目標は達成したのだった。
あれから随分と時間が経つ。
いい思い出だと、思う。しかしずっと何かがひっかかっていた。その時に感じていた「ひっかかり」、それに今ならば僅かに言葉を与えることが出来るだろう。
僕がその旅で感じていたのは、結局失望感と虚無感だったのだ。
じっさいのところ、それは旅とは呼べないものだった。「戻ってこれる」のは最初からわかっていたのだから。
その時に感じた虚無感は、なんとなく今も僕のひとつの基準、モノサシのようになっている。そう思えば、経験としてはそれなりに得たものもあったのかもしれない。
しかし妙な話しだが、歳をとるごとに見慣れた街、この社会の中で、さ迷い途方に暮れているような感覚を抱く。
なにかを探して歩き続けている。しかし、なにを探しているのか、目的地を僕はもう知らない。
知らない? いや、知っているはずだ。
それは、場所ではなくたとえば消えてしまった迷子たち、その背中の影。
或いは、人々が口にするのさえ忘れてしまった浪漫。
旅は始まっていて、歩き続けるにはひとつの炎、勇気が必要なのだ。
「青の奇跡は眠る」 梅田 喬(うめだ たかし) 次回公演「トンマホーク号の冒険」に向けて、アトリエである青の奇跡の大改造が行われました。
3月に中止となった「幻探偵4」の水芝居用の舞台(あちこちから水が出る仕掛けがあり、舞台上に池がありました!)から、2,3他の劇団の公演も経て、客席も全て一旦バラして新しく床を張り、ペンキも塗り直しました。
写真の通りピカピカです、よく見たら置物が床に映ってますね!

今度は主役であるトンマホーク号と、さ迷う宇宙がここに創られます。
何もないところにいろんな世界が広がるのは、まさしく劇場の魅力。
今は静かにその時を待っているかの様です…。
ともあれ、キレイで広いのは気持ちが良いことではありますが。キレイ好きなので(笑)
また青の奇跡に変化があったら報告致します。
写真も同じアングルで撮れたらいいなあ。どれだけ変わったか分かりますしね。
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